自分がある人、無い人。
人はよく、自分探しをするとか自分探しの旅に出ると言うけど、正しくは
“自分の生き甲斐さがし”
であって、“自分らしさを出せる時”とはどんな時なのか?を探すという事だと思う。
自分の生き甲斐が分かれば、その生き甲斐に対して没頭できる。
没頭するという事は、本当の自分になっている可能性が高い。
この時、その人は自分らしさが出ているので、
『自分が“ある”時』
だと思う。
歌にある、♪春が来た〜春が来た〜どこーにー来た〜♪
という歌詞にもあるように、春が来るとは、どこに来るのか?
♪山に来た、里に来た、野にも来たー♪
と、言っている。
町や家に来るのではなくて、空気や草木、小川、桜を通して来たという事が分かる。
春は春という形がある訳でも無く、何か別のものを通して春が来たと分かる。
この春と同じ、自分というのも同じ事だと俺は思っている。
自分とは、何か自分らしさが出る生き甲斐や、得意なものを通して、
『あ、この人らしい振る舞いだな』
とか、
『あ、活き活きしてるな。きっとこの人はこれが大好きなんだろうな。偽りの無い自分らしさが出ているんだろうな。』
と、いう事が分かるのではないだろうか?
まさに、“自分がある”状態。
この、『自分らしさ』を人は欲しいのだ。
それを見つけるために、人は“自分探し”をする、と言って旅に出る。
そして、みんな気付く。(不発に終わる人も大勢いるが、、、)
実は“本当の自分”は、外にあるものではなく、もうすでに持っている自分の知っている何かであると気付くのだ。
要するに、自分探しに出てみたものの、そんなものは外には無い。
でも、外に出て外から自分を見つめれる時が来た時に、“はっ”と気付く事がある、という事であって、決して外に落ちているものでもなければ、コンビニに売っているものでもない。
探すのではなく、気付く事。
外に探すのではない。
もう、すでに内に持っているものなのだ。
その自分探しとは、
“自分らしさ”
であって、自分らしさを出せる時とは、どういう時なのか?
に気付いて帰って来るのではないだろうか?
何が自分の生き甲斐なのか?
という事に気付けば、そこに
“自分らしさ”
が出せる、という事ではないだろうか?
生き甲斐に気付いた人を、自分があるとか自分を持っている人、と言う。
逆に、自分が無い人、というのは生き甲斐に気付いていない人の事を言うのではないだろうか?
俺はおっぱいパブに行って、おっぱいをパフパフしている時に、一番自分らしさが出せるんじゃないかなーって思ってる。
俺、、、、、
自分探しに行って来る、、、
おっぱいパブへ、、、
でも、その前におっぱいパブに行く勇気を探しに行って来る!
行く勇気が無いので、、、
あれ?何かおかしいぞ、、、
外へ探しにいくのではない。すでに内に持っている、って言ったけど、、、、、
俺、、、
あんな柔らかい大きいおっぱい持ってないもん。
だから、これは例外。
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