2009年4月26日日曜日

優しさの言葉の中に厳しさを


厳しくしてくれる人が周りに居るだろうか?そんな事をよく考えていた。
俺の父親は恐い存在ではなく、どちらかと言うと甘くて存在感の無いおとなしい父親だった。


母親は、口うるさいだけの自分の感情だけで怒るような母親で、父親同様恐い存在ではなく、ただうるさい母親だった。


そしてどちらも過保護だった。それがどういう結果をもたらしてしまうのか、両親は知る由もなかったであろう、、、。


人間は、厳しく育てられなければ甘い考え方しかできず、自立心の無いまま成人を迎えてしまう。そして、そこからが本当の意味で苦しい人生の始まりとなってしまうのだ。


自分に甘ければ甘いだけ、人生は辛く厳しいものになってしまう。それに気付いたのは25才を過ぎた頃だった。俺は自分では『気付くのが遅過ぎた』とこの頃には思っていたが、その後違う認識に変わった。気付いただけ俺はましだった、と言う事に。


今の年になっても、気付くべきことに気付かず、過去のまま何の修正も無いままに、甘えた今までの人生を歩いている人がどれだけ多いことか。


その人達は、必ず今後厳しくて辛い人生になるだろう。耐えられる事ができるか本当に心配になる人も俺の周りにも何人も居る。


人は、この年になって自分に対して厳しくしてくれる人はなかなか居ないだろうし、現れる事もまず無いだろう。これを求めていない人には、その方が良いと思っているだろうが、そうではない。厳しくしてくれる人が居て始めて自分の姿が見えて来る事もある。


厳しくされないで、自分を見いだす事が出来る人間は、結局今までに厳しくされた事のある人間であると俺は思っている。


でも、最近になってふと気付く事があった。それは、厳しさの中に優しさを見つけ、優しさの中に厳しさを見つける事だ。


他人に厳しくする事はなかなかできないので、人は優しい言葉の中に、厳しさを忍ばせている事がある。それを汲み取る力を身につけて、是非とも自分を厳しくする事ができれば何歳になっても人は成長をし続ける事が出来るのではないか、と思う今日この頃である。



さぁ、おっぱいという希望を探しに、今夜も出かけようかな、、、。いまだ、おっぱいパブに行った事の無い俺は、まだまだお子様なんだな、と痛感するこのごろでもあるのだ。



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